長久手古戦場物語
小牧・長久手の戦いとは…
天正10年(1582)6月、織田信長が家臣明智光秀の手にかかり本能寺にたおれました。このため、残された遺児や家臣の中で後継者争いが起こりましたが、この中で最初に駆け出したのが羽柴秀吉でした。秀吉は明智光秀を討ち(山崎の戦い)、柴田勝家を破り(賤ケ岳の戦い)、次第に天下統一への階段を昇りつめていきました。
こうした中で、信長の次男信雄は、日に日に強大になる秀吉の勢力に対し、しだいに身の危険を感じるようになり、織田信長の同盟者であった徳川家康に助けを求めました。家康はいつかは秀吉と対決せねばならないと考えていたので、これを承諾しました。
天正12年(1584)3月、ついに秀吉軍と家康・信雄連合軍は、ともに兵を挙げました。両軍はしばらく小牧でにらみ合いましたが、先に動いたのは秀吉軍でした。家康の拠点の岡崎を攻めるために三好信吉を総大将とした別動隊を送りましたが、その動きを察知した家康も行動を開始し、4月9日長久手で激しい戦闘が起こりました。
この日の戦いは、家康軍の勝利に終わりましたが、後に秀吉は信雄と和睦し、信長の後継者としての地位を確立しました。
1 羽柴(後の豊臣)秀吉(1537-1598)
HIDEYOSHI HASHIBA(TOYOTOMI)
1554年(天文23年)から織田信長に仕える。「本能寺の変」の後、明智光秀、柴田勝家、織田信孝等を滅ぼし、信長の後継者としての地位につく。
2 徳川家康(1542-1616)
IEYASU TOKUGAWA
江戸幕府初代将軍。織田信長の死後、秀吉との対立関係を激化させる。小牧・長久手の戦いで秀吉と対決するが後に、臣従する。
3 織田信雄(1558-1630)
NOBUKATSU ODA
信長の次男。「本能寺の変」後、清須城を中心に尾張、伊賀、南伊勢を領した。家康と手を結び小牧・長久手の戦いで秀吉と戦う。
4 榊原康政(1548-1606)
YASUMASA SAKAKIBARA
元々は酒井忠尚の家臣で、1560年岡崎帰城した家康に属し、近臣となった。小牧・長久手の戦いで功をあげる。
5 池田勝入(恒興)(1536-1584)
TSUNEOKI (SYONYU) IKEDA
秀吉方の武将。母が織田信長の乳母のため、信長とは乳兄弟の関係。長久手の戦いの三河進撃第一隊として進撃し、長久手で戦死する。
6 池田元助(1564-1584)
MOTOSUKE IKEDA
勝入の長男。長久手の戦いの三河進撃第一隊として進撃し、長久手で戦死する。
7 森長可(1558-1584)
NAGAYOSHI MORI
信長家臣。のちに秀吉の属将。武蔵守三河進撃第二隊。長久手で戦死する。勇壮な戦いぶりから、鬼武蔵の異名をもつ。なお、信長近臣の森蘭丸は長可の弟。
8 堀秀政(1553-1590)
HIDEMASA HORI
信長ののち秀吉家臣。三河進撃第三隊。桧ケ根で榊原康政らを迎撃し、家康軍に勝つ。
9 三好信吉(1568-1595)
NOBUYOSHI MIYOSHI
秀吉のおい。三河進撃第四隊・総大将。白山林で襲撃され敗走する。
長久手周辺での戦い
主戦場は尾張に
秀吉そして家康・信雄の両者とも、当面は伊勢国、特に信雄の本拠長島城(三重県桑名市)のある北伊勢を戦闘場所と想定していた。しかし、家康・信雄の予想に反し、美濃国大垣城主・池田勝入(恒興)と美濃国金山城主・森 長可が犬山城(愛知県犬山市)を攻撃、落城させる。慌てた家康は、池田・森の侵攻を防ぐため、自軍の一部を北伊勢から北尾張へ急遽転戦。天正12年(1584)3月17日、羽黒(犬山市)まで陣を進めてきた森軍を、家康の部将酒井忠次らが敗って、形勢を立て直す〔羽黒の戦い〕。一方、北伊勢では秀吉軍への守りが不足し、信雄領伊勢国の南半分は、ほぼ壊滅状態となる。
羽黒で敗戦したものの、敵地犬山に拠点をもつことに成功した秀吉は、楽田(犬山市)へ着陣、周辺に砦を築いた。楽田から南方約4.5キロメートルの小牧山(愛知県小牧市)へ家康も陣を移し、近辺に砦を作る。信雄も長島から小牧山に移った。両者の当初の思惑に反し、主戦場は尾張国内へ移り、お互いが出方をうかがうという状況になる。
諸国へもこの戦いの様相が伝えられ、両将からの呼びかけに呼応し合戦に至った地域もある。秀吉方、織田・徳川方のどちらにつくか。この戦いは日本中へ大きな影響をおよぼした。
岡崎進軍
4月に入り、膠着状態を破って秀吉軍は岡崎侵攻のための別働隊を進める。通説では、この作戦の発案者は池田勝入で、「家康配下のほとんどの部隊は小牧山にいる。今、家康の本拠地岡崎を突けば、家康軍に乱れが生じ、そこを突けば勝利できる」と提案。最初はこの案に賛成しなかった秀吉も、勝入の熱心さに押され、ついに承諾したとされる。しかし近年の研究で、事前の普請(工事)、行軍の規模、ゆっくりとした移動日程などから、この作戦は隠密行動というより、計画的で大がかりなものであったことがわかってきた。秀吉はこの案に主体的に介入し自信をもっていたと思われるが、結果的にはこの作戦の失敗は秀吉の汚点となった。そのため「太閤記」では秀吉が勝入の案を「仕方なく受け入れた」と記され、後の歴史書等がそれに従ったと考えられる。
4月6日夜半、1・池田勝入・元助の父子、森長可 2・長谷川秀一 3・堀 秀政4・秀吉の甥で総大将の三好信吉(後の三好秀次、その後豊臣秀次)の順で、約24,000人の軍勢が岡崎へ向けて進軍を始めた。
岩崎城の落城
家康は、7日遅くとも8日には秀吉方の岡崎侵攻隊の動きを把握、8日夜には自身が小幡城(名古屋市守山区)へ進んだ。岩崎城主・丹羽勘助氏次を道案内役とした榊原康政ら4,500人の先発隊と、9,300人の本隊が秀吉方を追撃に向かった。
4月9日早朝、岡崎侵攻隊の先鋒池田隊は、岩崎城(日進市)のそばを通りかかった。勝入は岡崎への道を急ぐため、この家康方の城を攻めずに通過しようとしたが、岩崎城を守っていた氏次の弟、丹羽氏重らが、鉄砲を撃ちかけてきたため、これを攻め落としてしまった。この城には城主氏次の姉婿で、長久手城主の加藤太郎右衛門忠景も留守番に来ており、200名余りの城兵とともに戦死した。忠景41歳、氏重16歳であった。なお長久手城趾は、現在、市指定史跡となっている。
白山林の戦い-家康軍の急襲-
秀吉の甥で、当時わずか17歳の三好信吉が指揮する秀吉方の最後尾は、4月9日早朝、白山林(尾張旭市)で朝食をとっていた。そこへ徳川軍の先発隊が背後から急襲。不意を突かれた三好隊は、あわてて防戦に努めたが、ついに総崩れとなった。大将信吉は細ケ根(長久手市荒田)付近まで逃げてきたが、自分の馬も見失って、討死寸前まで追い込まれた。そこへ信吉の部将の木下勘解由利匡(きのしたかげゆとしさだ)が、自分の馬を信吉にさし出して逃し、兄弟の木下助左衛門祐久とともに、追ってきた徳川軍と戦って戦死した。なお木下一族の塚は現在も荒田に残っており、勘解由利匡の塚が、市指定史跡になっている。
桧ケ根の戦い-秀吉軍唯一の勝ち戦-
三好隊の敗走を知った秀吉方の第3隊の堀 秀政は、ただちに桧ケ根(長久手市坊の後)の丘陵上に陣を構えた。まもなく白山林で勝利した徳川勢が突進してきた。地の利を得た堀勢は、接近した敵に鉄砲のつるべ打ちをあびせた。隊列を乱した徳川勢に向けて、秀政は総攻撃を命令。堀勢の鋭い攻撃に徳川の先発隊は、多数の死者を出し、大打撃を受けた。しかしこのとき、秀政はすでに家康の本隊が東方に進出しているのを知った。深追いは不利と判断した秀政は、急いで自軍をまとめて、北方へ引き上げていった。
仏ケ根の決戦
4月9日の朝、岩作の色金山(長久手市岩作色金/現在は色金山歴史公園)周辺に着いた家康の本隊は、続々と香流川(かなれがわ)を渡って、午前10時ごろ富士ケ根(長久手市富士浦)から仏ケ根(長久手市武蔵塚の北部)、前山(長久手市城屋敷の一部)に陣を構えた。一方、岩崎城を落とした池田勝入のもとへ、信吉大敗の報告がもたらされる。勝入は急いで馬首を返した。すでに布陣を終えた徳川軍に対し、勝入は自分の長男元助を右翼に、娘婿の森 長可を左翼に配した。両軍は激しく戦ったが、勝敗はなかなか決しなかった。しかし昼ごろ家康の本営に突進した長可が、銃弾を頭に受けて戦死(享年27歳)したため、戦いは徳川軍が優勢になった。戦闘の終焉は、午後1時であった。池田勝入は永井直勝に、子の元助は安藤直次に討たれた。勝入49歳、元助26歳であった。池田父子の塚は、現在も国指定史跡として古戦場公園内に残る。
和睦
長久手の戦いで勝利をおさめた家康は、ただちに小幡城を経て小牧山に戻った。一方秀吉は4月9日昼ごろ、楽田の本営で岡崎侵攻隊の敗戦を知り、すぐに大軍を率いて救援に向かった。しかし、ときすでに遅く、龍泉寺まで進んだものの、そのころには家康は小幡城まで兵を引いた後であった。翌10日には、家康はすでに小牧城まで戻っており、秀吉軍は、なすすべもなく楽田にひき返した。その後、両軍は小牧・楽田周辺で小競り合いをしていたが、4月下旬に秀吉が美濃国鵜沼(岐阜県)に移動すると戦闘地域も尾張西部へ移った。5月に加賀野井城・竹鼻城(岐阜県羽島市)、6月に蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)で局地戦があったが、11月になると、桑名から長島方面へ攻撃した秀吉と、長島城にこもる信雄が単独で和睦したため、大義名分を失った家康も兵を引き、約8か月間にわたった「小牧・長久手の戦い」は、幕を閉じた。
この戦いで、信雄は伊勢国の大半と伊賀国を秀吉にわたし、事実上の敗北。秀吉は、旧信長家臣団を自身へ臣従させ支配体制を再編成、翌年には関白となり全国統一を推し進めていく。家康は、結果的に秀吉に臣従したが、その実力を全国の大名に認識させ、秀吉政権下でも別格の地位を保ち、徳川政権樹立の足がかりを固めていく。
市内の小牧・長久手の戦いの関連史跡などについては、下記リンクをご覧ください。
小牧・長久手の戦いついて展示している長久手市郷土資料室については、下記リンクをご覧ください。
家康が軍議を開いた際に腰かけたとされる床机石のある色金山歴史公園については、下記リンクをご覧ください。
色金山歴史公園へようこそ ~Iroganeyama Historical Park~
長久手町史については、下記リンクをご覧ください。
その他販売している冊子については、下記リンクをご覧ください。
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更新日:2023年12月07日