長久手市に残る城

更新日:2021年08月18日

長久手市内に残る城

長久手市内城跡位置図

長久手市内城跡位置図

長久手市域では、鎌倉時代から戦国時代にかけて築かれた「中世城館」の跡がいくつかみられます。「城館」とは、堀や土塁などの防御施設を備えた軍事施設としての「城郭」と領主たる城主一族の居住・儀礼(政治)空間としての「居館」といった2つの機能を併せもった施設です。天守閣などをもつ壮大な近世城郭とは異なり、大地を削り、土を盛り上げることによって築かれた「土の城」でした。

岩作城跡

現在も「城の内」の地名に残るように、市役所の敷地周辺は岩作城の跡地です。昭和60年及び平成10年の発掘調査で城館に伴う堀・土塁・虎口などが、それ以前に築かれた中世集落の遺構を破壊する形で構築されていることが判明しました。城の建築・廃城年代は正確には不明ですが、出土遺物相の変化から、15世紀後葉ごろから16世紀後葉が城館期だと仮定できそうです。古瀬戸品を多量に含む多彩で豊富な陶磁器が出土しました。特に注意をひくのは、茶道具である天目茶碗。武家の居住空間ならではの遺物です。天保年間(1830~1844)に成立した地誌『尾張誌』では、城主は今井四朗兵衛あるいは今井五郎太夫とされています。

岩作城跡石碑

市役所前の石碑

大草城跡

土地はほぼ台地形で、現在は熊野社や畑などになっています。主郭を取り囲むようにして東郭や多数の中小の郭、帯郭、土塁などが配置され、折れを多く設けた城の構造から、永禄・天正期に修造されたとみられています。『尾張志』には、城主として福岡新助の記録があります。大草城跡は、昭和62年にその中心域の現況地形測量調査並びに、文献資料等調査の報告書を刊行しました。

大草城跡石碑

長久手城跡

加藤太郎右衛門忠景の城館跡。幅3~6m、深さ1.7~7.5mの堀割を挟んで、台地の平面をもつ東城と長方形の西城が並立する連郭構造であったことがわかっています。

長久手城跡

岩作西城跡

『尾張志』に記された岩作村内の2つの古城跡のうち「西ノ城」にあたります。明治時代の地籍図上で畑地と宅地からなる区画らしき部分が城跡と推定されますが、詳細は不明です。

福岡太郎右衛門館跡

現在の前熊寺の境内一帯がその館跡とされますが、構造など詳細は不明です。城主は前熊寺の前身である和合寺の開基福岡太郎右衛門とされています。

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〒480-1166 愛知県長久手市野田農201番地

電話番号:0561-56-0627
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