暮らし|長久手の民俗資料からみえてきた 明治・大正・昭和のながくて|長久手市
農作業|長久手の民俗資料からみえてきた 明治・大正・昭和のながくて|長久手市
養蚕|長久手の民俗資料からみえてきた 明治・大正・昭和のながくて|長久手市
風景|長久手の民俗資料からみえてきた 明治・大正・昭和のながくて|長久手市
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暮らし(くらし)昭和のはじめから中ごろまでの日本では、今のように炊飯ジャーや、ガスコンロではなく、土間のかまどで食べ物の煮炊きをおこなう家が多く残っていました。
わらや木のくずなどの燃えやすいもので薪(まき)に火をつけ、羽釜(はがま)でご飯を炊いたり、お湯を沸かしたり、鉄鍋を火に掛けて調理をしました。
ガスと違って、かまどの火は、強くなったり、弱くなったりするので、調理中は火の番が必要で、子供も手伝いをすることがありました。
ご飯が炊けたら、おひつ(飯櫃)の中に移します。ご飯を冷めにくくするために、おひつをわらで作られたえじこの中に入れていました。おひつとえじこは、今の電子ジャーがわりに使われていました。
食事は、今のようにテーブルを使って食事をするのではなく、家族1人1人それぞれに自分専用のお膳があって、そのお膳を使って土間の隣の板の間で食べました。
二階に上がる階段下には、空間を有効利用するため引き出しや戸棚を取り付けた階段箪笥が使われています。衣類や身の回りのものを入れる道具として行李(こうり)も日常的に使われていました。
冬場、暖をとる道具としては火鉢(ひばち)が使われていました。火をおこした火鉢の中に五徳を置き、鉄瓶を載せてお湯を沸かしていました。
長久手では、昭和のむかしは、現在のように水道の蛇口をひねれば水が出てくるという便利な暮らしではない家庭も多く、各家庭の母屋の東か裏に井戸を掘って、水をくみ上げて使っていました。
井戸の上に井戸屋形を建て、滑車(かっしゃ)に縄をかけてつるべを両端につけて水を汲み、木桶(おけ)に水を移して家の中へ運び、水瓶に溜めて調理など日常生活全般に使いました。
長久手には大正時代頃から、現在のプロジェクターのような幻灯機(げんとうき)や、現在のCDプレーヤーのような蓄音機(ちくおんき)がある家庭も出始め、仕事の合間に娯楽を楽しむ家庭も増え始めました。
昭和に入ってからは、ラジオ放送も始まり、それにともないラジオ受信機も普及していきました。
この記事に関するお問い合わせ先
くらし文化部 生涯学習課 文化財係
〒480-1166 愛知県長久手市野田農201番地
電話番号:0561-56-0627
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更新日:2022年02月07日