養蚕|長久手の民俗資料からみえてきた 明治・大正・昭和のながくて|長久手市
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養蚕(ようさん)明治の開国後から昭和のはじめまで、日本の農村では、絹糸を作るために、養蚕(ようさん)が盛んにおこなわれていました。
養蚕(ようさん)とは、蚕(かいこ)という蛾(が)の幼虫を育てて、幼虫がさなぎになる時に作る繭(まゆ)を取り、その繭から糸を取り出す仕事です。
長久手でも、明治30年代から昭和初期まで盛んに生産されていました。
蚕は、桑(くわ)という木の葉を食べて育ちます。養蚕農家は、蚕を育てるために、蚕のえさとなる桑も畑でたくさん育てていました。養蚕が一番盛んにおこなわれていた頃は、長久手の畑の約半分が桑畑でした。
蚕の飼育期間は一回につき20日〜30日くらいで、桑の葉が育つのは、春から秋なので、それにあわせて、多い時には、一年で4回、養蚕をおこなっていました。
桑の葉は一枚一枚、手作業で摘まなければなりません。葉はすぐにしおれてしまい蓄えておくことができないので、 一日三回、葉つみをおこなうこともありました。
また、蚕に毎日桑を与え、大切に育てていても、途中で蚕が病気にかかってしまい、蚕を死なせてしまう事もありました。
せっかく途中まで大切に育てても、幼虫のうちに死んでしまい、繭を作らせることができなければ、絹糸を取り出す事ができず、全て無駄になります。養蚕農家は、ヌカヤキで焼いた焼ヌカや桑乾燥機などを使って、蚕の暮らす環境に常に気を使っていました。
桑の葉を蚕に与えるのと平行して、養蚕農家は、蚕の幼虫がさなぎになり繭(まゆ)を作るための部屋のような物を用意します。
この部屋の事を「まぶし」と言います。
まぶしは、時代によっていろいろなタイプがありますが、昭和に入ってボール紙で作るまでは、藁(わら)を編んで作っていました。
まぶしに幼虫を移動させると、幼虫はまぶしの中で糸を吐きはじめ、繭を作ります。
繭が完成し、蚕がさなぎになったら、いよいよ繭から糸を取り出します。
この記事に関するお問い合わせ先
くらし文化部 生涯学習課 文化財係
〒480-1166 愛知県長久手市野田農201番地
電話番号:0561-56-0627
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更新日:2022年02月07日