民俗芸能
馬の塔の特徴と由来
馬の塔(オマント)は、かつて尾張・西三河で行われた代表的祭礼習俗のひとつで、標具(ダシ)と呼ばれる札や御幣を立て、豪華な馬具で飾った馬を社寺へ奉献するものである。
神輿や山車と比較すると道路の狭さや悪路を気にすることなく村のすみずみまで巡行でき、長距離移動が可能であった。この特性はより多くの村々が連合して行う形式がとられ、合宿(合属ガッシュク・カシク・ガッショク)と称して数10箇村が連合して信仰圏の広い社寺に献馬されるようになった。
祭礼は、降雨祈願の成就御礼や、豊作御礼、遷宮祭にも出された。 5月5日の熱田馬の塔、5月18日 大須観音馬の塔、9月9日 猿投神社馬の塔 などが記録にある。
馬の塔
長久手の馬の塔
本市の馬の塔には、馬を警固する棒の手隊と火縄銃を持った鉄砲隊が加わり「警固祭り」と呼ばれている。この傾向は旧愛知郡東部・西加茂郡が顕著である。本市の馬の塔の運営は、神社を中心に3つの地区に分かれて実施されている。景行天皇社・富士社を氏神とした「長湫の馬の塔」・石作神社を氏神とした「岩作の馬の塔」・熊野社、神明社、多度社3神社の氏子たちが合同で行う「上郷の馬の塔」である。合宿が行われなくなってからの馬の塔は、氏神に奉納される場合も合宿と同じ馬飾りが使われ、合宿に準ずる形で行われている。また曳馬祭りは昭和24年ころまで行われていたが、最近は行われなくなった。
祭りを実施する組織は青年会、古くは「若キ者」「若連」とも呼ばれる集団で、15歳から25歳までの男子が祭礼一式を取りしきった。祭ともなると年齢を基準に役が定められ、村中に特別の緊張感がはしり、祭に関する村民への伝達一つをとってもきびしい作法の中で行われた。祭りを通して若者たちは年長者のきびしい目の中で鍛え上げられていった。こうした中で、ひとたび無礼があると、祭りそのものが成立しなかったり、揉め事が起きてしまうこともあった。しかし、祭りの時は小作も地主も対等となって祭りに参加するため、小作人たちは祭りがうれしかったともいわれる。
本市の馬の塔は、昭和58年6月11日に市の無形民俗文化財に指定された。その後、2地区が愛知県無形民俗文化財に指定された。
愛知県無形民俗文化財
- 昭和60年11月25日指定「岩作のオマント」
- 平成17年3月22日指定「長湫の警固祭り」
オマント衣装
棒の手の起源と伝承
棒の手は愛知県の代表的な民俗芸能の一つであり、「長久手の棒の手」は昭和31年6月21日に県の無形民俗文化財に指定された。
棒の手の起源ははっきりした資料がなく定説がない。一説には本郷城主(現在の日進市内)丹羽若狭守氏清が、城下の農民に武術を習得させたのが始まりで、丹羽氏の勢力が増大するのに従い各地に広まったとする説や、巻物をはじめ棒の手の内容に関する記録には修験道などの影響が濃いところから、修験道に起源を求めた説もある。
棒の手の伝授
かつての棒の手は青年組織により受け継がれてきた。男子は小学校卒業から16歳頃までの一定の年齢に達すると、青年会などの組織に入り、棒の手の練習を始めた。中でも巻物の伝授を受けようとする者は、師匠の元へ弟子入りの誓文血判を出して弟子となった。そして、ツキロクサイ(月六斉)といって、月に6度練習日を決めて通い、3年あるいは6年目にして初めて免許目録を授与された。巻物の受け継ぎは師匠の家で厳粛に行われた。深夜、師匠の家に声などもれないように目張りをし、巻物を授けたのち、口伝で奥義を伝えたと言われる。
棒の手をささえる組織
棒の手は、戦中戦後に一時衰退したが、昭和30年頃から各地で保存会が組織され氏子祭礼、馬の塔などの行事とともに受け継がれてきた。
現在本市には、流派ごと、地域ごとにそれぞれ保存会が組織され活動している。そしてこれを総括する組織として「長久手市棒の手保存会」がある。昭和30年に組織されたこの保存会は現在会員総数200名をこえる大組織で、市内行事はもとより、愛知県を代表する郷土芸能の棒の手を紹介するため、県外への各種行事へも積極的に参加している。
棒の手
馬の塔と棒の手の資料について
ながくてデジタル資料室では、馬の塔と棒の手についての映像資料があります。
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この記事に関するお問い合わせ先
くらし文化部 生涯学習課
〒480-1166 愛知県長久手市野田農201番地
電話番号:0561-61-3411
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更新日:2020年11月30日