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長久手市市民記者ホームページへようこそ!

 市民記者とは、行政からの一面的な視点では伝えきれない、
長久手市の魅力や課題などを市民のみなさんの視点で取り上げてもらい、
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 行政からのお知らせとは一味違った市民のみなさんからのバリエーション豊かな記事をどうぞお楽しみください。

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おやこ探検隊が行く!「官兵衛ではない!?」 その2

  • 2014-03-11 (火)
  • 未分類
  • 作成者:斉藤 誠

 

おやこ探検隊とは、子どもとその親(ワタシ)が探検隊としていろいろなところへ出かけていった様子を楽しくお伝えしようというものである。

 

その1からのつづき・・・

 

素屋根を出た後もやはり門が続く。

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そうしてもう一つの見どころ、西の丸長局(百間廊下)である。

大天守の中に入れなかったので、ここでようやく建物の中に入ることができる。

百間というだけあって長い。約300mあるそうだ。ん?百間と300mでは長さが違うようだが・・・?ま、とにかく長いということだ。

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ここは千姫に仕えた侍女たちが居たところで、千姫は毎朝この廊下から近くの男山を拝んでいたと伝えられている。

千姫とは2代将軍、徳川秀忠と江(ごう)の長女である。

7歳で豊臣秀吉の息子である秀頼と結婚し、仲むつまじく幸せな日々を送るが、大坂夏の陣で大坂城は落城。

千姫はかろうじて生き残るも、この結婚は悲しい結末となる。

秀頼を亡くした千姫はその後、徳川家臣・本多忠勝の孫・忠刻と再婚。

姫路城で暮らすようになる。

だが、子、夫、姑、母と次々と亡くし、徳川家に帰ることとなる。

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この廊下、たしかに長い。しかも、落ち着いた静かな趣に満ちている。

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今回は、保存修理工事の様子は見ることができた。

しかし、「素屋根」という四角い箱で覆われた姿は、やはり残念な感じがしてしまう。

それでもため息が出るほどの美しさなのだから、修理が終わって覆いが取れたらどれほどのものなのか、もう一度見に行かねばなるまい。

いや、もう一度と言わず、何度でも訪れてみたい。

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城内でボランティアガイドをしていた青年は、私が長久手から来たと言うと、「あの小牧・長久手の戦いの!!」と敏感な反応を示してくれた。

わが街は、あの小牧・長久手の戦いがあった場所である。

私たちは膨大な歴史の上に暮らしている。

ときにはそれを振り返ってみるのも楽しいものだ。

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おやこ探検隊が行く!「官兵衛ではない!?」 その1

  • 2014-03-11 (火)
  • 未分類
  • 作成者:斉藤 誠

おやこ探検隊とは、子どもとその親(ワタシ)が探検隊としていろいろなところへ出かけていった様子を楽しくお伝えしようというものである。

 

天正12年(1584年)に起こった小牧・長久手の戦い。

この戦いで、羽柴軍の武将 池田恒興とその長男元助は討ち死にした。

だが次男である池田輝政は戦場を離脱し生き延びている。

この輝政が造った城が姫路にある。

言わずと知れた、国宝 姫路城である。

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姫路は今、黒田官兵衛で沸いている。

だが、官兵衛がいた当時の城は、現在のものよりもずっと小さなものであったようだ。

田舎大名の家臣にすぎなかったのだから、これは当然のことである。

その後、官兵衛は姫路城を羽柴秀吉に譲っている。

秀吉は、石垣で城郭を囲い三層の天守を築いたとされている。

この、秀吉時代の遺構は現在も地面の下に埋まっているとのことだ。

 

さて、現在の姫路城、夢のように美しい城である。

池田輝政が、慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて、のべ2,400万人もの人員を動員し大規模に改修したものである。

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この城、太平洋戦争中にはアメリカ軍の空襲により焼失の危機にあったのだという。

もともと軍需産業の拠点であった姫路は爆撃の対象であり、なんと大天守にも焼夷弾が直撃したのだそうだ。しかしこれは不発であり、奇跡的に危機を免れている。

だが、この爆撃によって城下町のほとんどが消失し、現在では当時の街の様子をうかがい知ることはできない。

もっとも、街の区画はおおよそ当時のものに則っているのだそうだ。

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姫路の駅を出ると、真正面に姫路城が座っている。

「尾張名古屋は城で持つ」と言われるが、姫路も同じことも言えるのではないだろうか。

城を軸にして街が出来上がっている。

 

私が見に行ったときは大天守の修理中で、「素屋根」と呼ばれる鉄骨で作られた覆いで囲われていた。

無機質な四角い箱に、大天守の絵が描かれている。

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門をくぐる。

意外に間口が狭い。敵に攻められにくくするためだ。

そして、「いの門」をくぐり、「ぬの門」をくぐり、「りの門」をくぐり・・・、というようにやたら門が多い。

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おそらくすべての城が、かつてはこのように多くの門に守られていたのだと思うが、残っていない場合が多い。

そうしてようやく素屋根「天空の白鷺」に入る。

残念ながら、私が行ったときには外観の修復作業は終わってしまっていたようで、職人さんたちの作業風景は見られない。

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建築の専門家ではないが、本当に丁寧な作業がされていることは分かる。

よく見ると、足場は天守に一切触れていない。余分な負担がかからないようにするためだ。

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この「素屋根」だけでも相当高度な建築物なのではないだろうか。

石垣も間近に見ることができる。

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といわけで、今回はここまで。

つづきは、その2にて・・・。

 

 

 

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おやこ探検隊が行く! その3‐5

  • 2013-12-16 (月)
  • 未分類
  • 作成者:斉藤 誠

 

 

れきし探検の巻 ~ながくて史跡めぐり編~

   中野氏とともに 最終回

 

おやこ探検隊とは、子どもとその親(ワタシ)が探検隊としていろいろなところへ出かけていった様子を楽しくお伝えしようというものである。

長久手市郷土史研究会会長の中野さんに解説をしていただきながらめぐった史跡の探検記も、ようやく最終回にたどり着くことができた。

というわけで、前回(おやこ探検隊3-4)からの続き。

以下の文は、今回も中野さんの解説をまとめたものである。

中野氏2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徳川軍の後背を突くための中入り部隊が敗北を喫している間、秀吉は何をやっていたか。

 

秀吉は楽田の本陣にいた。

 

三好秀次隊が白山林において、徳川先遣隊の攻撃を受けたのが5時半ごろ。

白山林から楽田まで約20キロ、時速5キロで移動したとすると4時間で着く距離である。

 

秀吉は昼ごろになって、三好隊の敗残兵から敗北の報告を受けている。

秀吉は驚き、2万の軍勢を率い出発、龍泉寺城に入った。

 

家康も秀吉本隊が来ると危ないのは分かっていた。あわてて戻り、守山の小幡城に入る。

 

このときすでに日が傾き、夕方になっている。

秀吉は決戦を明日とした。

 

ところが家康は決戦を避け、夜8時ころこっそり小牧山城に戻ってしまうのである。

 

こうして4月9日の戦いは終わったが、小牧長久手の戦いは11月まで続く。

 

家康は長久手の戦いでは勝った。しかし、その後信雄(のぶかつ)の領地のある伊勢方面はほとんど占領されてしまう。

 

そして、最終的には和睦。

 

和睦で終わったが、秀吉には家康も対抗できず、秀吉が天下をとることになるのだ。

 

というわけで、ようやく小牧長久手の戦いの解説が終わった。長かった。

 

勝入塚さて、古戦場公園に勝入塚がある。

池田勝入斎恒興はここで死んだ。

 

左側の、少しななめになっている石柱は、明和8年1771年尾張徳川藩の人見彌右衛門と赤林孫七郎が建てたもの。

 

正面の尖った碑は、明治になって岡山の池田家と鳥取の池田家が、村人と協力して建てたものだそうだ。

 

徳川に刃向って死んでいった者であるため、江戸時代には大きな碑を建てることはできなかったとのことだ。

 

ちなみに当時は、ここ古戦場も色金山も御旗山もほとんど木のない禿山だったそうだ。木は付近の村人達の薪になってしまうのだ。

 

ついでに言うと、小牧山城とか岐阜城など小高い山の上にある城も、現在はうっそうと茂る木々の上に建っているが、当時はほとんど木は生えていなかったそうだ。

なるほど防御の点から言っても、視界を遮る余分なものは、無い方がいいであろう。

 

庄九郎塚そして庄九郎塚。

池田恒興の長男、池田元助の戦死の地を示す碑である。

 

庄九郎とは元助が小さいときの名。

 

なお、この場から落ち延びた恒興の次男 輝政は、姫路城を現在のあの美しい姿にした人である。

 

あれほどの壮麗な城を建てたのだから姫路ではヒーローであるかと思いきや、あちらでは池田家は人気がない。

 

城を作るために重税を課したため、姫路の人々は池田家を恨んでいるということだそうだ。

なるほど、さもありなん。

 

 

堀久太郎本陣地跡そして少し場所を移し、ここは桧ヶ根公園である。

 

ここに羽柴軍の武将、堀久太郎秀政の本陣地跡がある。

この地で堀秀政は徳川先遣隊をさんざんに打ち負かしている。

 

ここまで長々と書いてきたこの「小牧・長久手の戦い」、秀吉が天下の時はあまり語られることはなかったようだ。秀吉が負けた戦いだからだ。

 

逆に徳川では、自慢できる唯一の戦いなのだそうだ。

姉川の合戦は信長が主役であり、家康は応援部隊であった。

長篠の戦いは、信長の三段撃ちが主役である。

関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠率いる徳川本隊は信州上田で足止めを食い、関ヶ原には間に合っていない。

大坂の陣は家康が勝ったが、豊臣秀吉の息子秀忠を無理やり殺した戦いであり、なおかつ家康と戦った大坂方が善戦した戦いである。

 

その点、小牧・長久手の戦いでは、名人秀吉を相手に互角以上に戦って、長久手では大勝利を得ているのである。

 

中野氏いわく、小牧・長久手の戦いは日本三大合戦の一つであるのだそうだ。

秀吉と家康が戦った、その後の歴史を左右する天下分け目の戦いであった。

 

それが現在なぜマイナーな扱いを受けるのか。

 

秀吉は、百姓から天下を取った男として、江戸時代も明治時代も人気があった。

 

一方、家康は江戸時代でこそ神であったが、明治維新によりその名は地に落ちた。

 

家康は秀吉の天下を奪ったずるい奴、タヌキおやじ、そう思われるようになった。その家康が秀吉に勝った戦いだからである。

 

それが、昭和30年代に作家の山岡荘八氏が新聞小説徳川家康を書いてから、世間の家康像が変わった。そして、今や三英傑の一人と呼ばれるようになっている。

 

歴史の評価とはその時代によって、変わっていくものである。

私たちの住むこの長久手の地で起きた「小牧・長久手の戦い」も新たな解釈により、さらにクローズアップされる時が来るのかもしれない。

 

かつてこの街で歴史が動いた。

それは、京や大坂などと比べたら霞んでしまうかもしれないが、それでもやがて天下を取ることになる二人の武将が戦った場所である。

 

長久手古戦場という名前は、歴史好きにはすでに知れ渡っているとはいえ、一般的な認知度を高めるためにも、この街の資産としてさらに大切に取り扱っていく必要がある。

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おやこ探検隊が行く! その3‐4

  • 2013-11-21 (木)
  • 未分類
  • 作成者:斉藤 誠

れきし探検の巻 ~ながくて史跡めぐり編~

   中野氏とともに ④

 

おやこ探検隊とは、子どもとその親(ワタシ)が探検隊としていろいろなところへ出かけていった様子を楽しくお伝えしようというものである。

 

中野氏今回のおやこ探検隊も、特別編として長久手市郷土史研究会会長の中野さんに小牧・長久手の戦いの解説と、関連する史跡の案内をしていただいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

というわけで、前回(おやこ探検隊3-3)からの続き。

以下の文は、今回も中野さんの解説をまとめたものである。

 

羽柴秀吉は犬山の楽田、家康信雄(のぶかつ)は小牧山にそれぞれ陣を構え、対峙している。

 

秀吉家康、互いに戦の名人同士である。

双方にらみ合いのまま、膠着状態となっていく。

 

そこで、池田恒興(つねおき)秀吉に提言する。

家康の本拠地、岡崎はがら空きである。そこを襲い火を放てば家康は驚き飛び出してくるであろう。これを挟み撃ちにすれば勝てる。」

 

“中入り”と呼ばれる作戦である。かつて信長が上手くおこなったとも言われているが、リスクを伴う危険なものであり、成功例も少ない。

 

秀吉は当初この提言を退けた。しかし、再三にわたる恒興の懇願に負け、許可を出す。

 

こうして、三好秀次を総大将とした総勢2万人の軍勢が編成されるのだ。

なお、三好秀次秀吉のおいであり、このときまだ17歳の若者である。

第一陣 池田恒興隊 6,000人

第二陣 森長可隊  3,000人

第三陣 堀秀政隊  3,000人

第四陣 三好秀次隊 8,000人

 

天正12年(1584)4月6日、各隊はそれぞれの陣地を出発。

7日、春日井の篠木、柏井に集結。

8日の夜半に庄内川を渡る。長久手経由で、岡崎を目指すべく進軍するのだ。

 

ところが、家康はこの動きを8日には察知していた。

急遽、榊原康政大須賀康高水野忠重丹羽勘助他、計4,500人の先遣隊を組織して、後を追わせている。

 

家康自身も9,300人の本隊を連れてひそかに小牧山を下り、9日早朝には長久手の色金山に到着。山頂の床几石(胡牀石)に腰をかけて軍議を開く。

 

一方、羽柴軍の先頭を行く池田恒興隊は、午前5時、岩崎城下(日進市)を通過しようとしている。

 

岩崎城の城主は丹羽寛助氏次(35歳)だが、徳川軍先遣隊に加わっているため、留守を預かるのは弟の丹羽氏重(16歳)と、義兄で長久手城主の加藤忠景以下わずか240名ほどである。

 

氏重池田隊に鉄砲を撃ちかけた。これがたまたま恒興の馬の前足に当たり、恒興は落馬する。

 

怒った恒興は城を猛烈に攻めたて、城兵を全滅させてしまう。

だがこの間、後続の隊は停止することになり、徳川軍に付け入るすきを与えてしまった。

 

その頃、最後尾の三好隊は白山林(尾張旭市)にて朝食をとっていた。後ろから徳川軍が迫っていることに気づいていない。

 

そうして夜が明け始めたその時、忍び寄った榊原康政徳川先遣隊4,500人の奇襲攻撃が始まった。

 

虚を突かれた三好隊は壊滅し、長久手方面へ敗走する。大将の三好秀次は乗馬を失い走って逃げている。

 

途中、家来の木下兄弟に馬を譲られ命拾いをするが、この兄弟は戦死。

そこは現在、木下勘解由塚として市の指定史跡となっている。

 

その前にいる、第三陣 堀秀政は現在の景行天皇社のあたりにいた。北の方から鉄砲の音が聞こえたため探りを入れてみると、白山林で負けた三好隊が逃げて来るのが分かった。

その後ろには勢いに乗り、追撃する徳川先遣隊

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すぐに見晴らしの良い桧ヶ根に移動、香流川の前に鉄砲隊を配し徳川隊を待ち伏せる。

「敵を10間の距離まで引き付けよ。」

1間は1メートル80センチであるから、10間で18メートル。つまり目の前に来てから撃てという指示である。

 

かくして、徳川先遣隊を散々に打ち破り、敗走する敵を岩作方面に追撃する。

 

 

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しかし、それを見た家康は御旗山へ移動し、金扇の馬印を立て堀隊を牽制。

堀隊家康本隊と単独では勝負にならないため、現在の愛知医大の方へ兵を引き、そこで3度勝鬨を挙げたのち、去った。

 

羽柴軍、残るは第一陣 池田隊と、第二陣 森隊

白山林での三好隊敗北を知った両隊は、いそぎ長久手に戻り家康本隊との決戦の態勢を整える。右翼に恒興長男元助次男輝政、左翼に森隊、後方に恒興

 

対する徳川軍、すでに布陣は終えている。

右翼に家康自身、左翼に井伊直政

 

そして午前10時、決戦が始まる。最後の決戦である。

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両軍入り乱れての死闘は一進一退を繰り返す。

 

11時、仏が根で元助輝政が攻勢に出て徳川軍を後退させる。

 

池田隊攻勢をみた森長可徳川本陣へ突撃する。

だがこの時、徳川軍の放った銃弾が長可の眉間を貫通した。

即死であった。享年27歳である。

 

 

 

 

 

大将である長可の戦死により、羽柴軍左翼は壊滅。

池田隊も徐々に押されていく。

 

最後には徳川隊の旗本に囲まれ、恒興永井直勝に、息子の元助安藤直次に討ち取られてしまう。

 

次男輝政のみ、戦場を離脱。

 

こうして長久手での戦いは終わった。

 

徳川軍の大勝利である。

 

この間、秀吉は何をやっていたか・・・。

 

今回はここまで、次回に続く。

 

次回

この戦い、まだ終わってはいない。

最終的な決着とは。

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おやこ探検隊が行く! その3‐3

  • 2013-11-01 (金)
  • 未分類
  • 作成者:斉藤 誠

 

 

 

れきし探検の巻 ~ながくて史跡めぐり編~

   中野氏とともに ③

 

おやこ探検隊とは、子どもとその親(ワタシ)が探検隊としていろいろなところへ出かけていった様子を楽しくお伝えしようというものである。

 

今回のおやこ探検隊は、特別編として長久手市郷土史研究会会長の中野さんに小牧・長久手の戦いの解説と、関連する史跡の案内をしていただいたのだ。

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というわけで、前回(おやこ探検隊3-2)からの続き。

以下の文は、今回も中野さんの解説をまとめたものである。

 

賤ヶ岳の戦いの勝利によって、織田家の実質NO.1の地位に就いた秀吉

その目はすでに天下を捉えている。

 

対して、織田家の後継者の座をねらっていた信雄(のぶかつ)

自分を軽視し始めた秀吉の態度に不満を持ち、両者の関係は次第に険悪なものとなっていく。

 

しかし、この時秀吉の勢力は650万石を支配下に置く巨大なものとなっている。

信雄一人では到底太刀打ちできないであろう。

 

そこで、かつて信長の同盟者であった徳川家康を頼り、応援を求めたのである。

 

賤ヶ岳の戦いは織田家の戦いであったため、静観していた家康であったが、急成長していく秀吉に危機感を感じていた。

 

「今なら秀吉に対抗できる」

 

家康信雄の応援という大義名分を得て、秀吉との対戦を決意する。

 

天正12年(1584)3月7日、家康は浜松を出発し13日に清洲城に入る。

28日には陣を進め、小牧山に布陣。その数1万5千余。

 

一方の秀吉も3月21日に6万とも8万ともいわれる軍勢を率いて大坂を出発。

27日に犬山城に入り、翌28日には楽田城に本陣をかまえた。

 

こうして両雄は対決、『小牧・長久手の戦い』の火蓋は切られたのだ。

 

今回はここまで、次回に続く。

 

次回

ついに始まった小牧・長久手の戦い。その結末やいかに。

 

 

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おやこ探検隊が行く! その3‐2

  • 2013-10-25 (金)
  • 未分類
  • 作成者:斉藤 誠

れきし探検の巻 ~ながくて史跡めぐり編~

   中野氏とともに ②

 

おやこ探検隊とは、子どもとその親(ワタシ)が探検隊としていろいろなところへ出かけていった様子を楽しくお伝えしようというものである。 

 

今回のおやこ探検隊は、特別編として長久手市郷土史研究会会長の中野さんに小牧・長久手の戦いの解説と、関連する史跡の案内をしていただいたのだ。

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というわけで、前回(おやこ探検隊3-1)からの続き。

以下の文は、今回も中野さんの解説をまとめたものである。

 

信長の死によっておこった織田家の後継者争い。

次男 信雄(のぶかつ)三男 信孝(のぶたか)が対象者である。

 

天正10年(1582)6月27日。

清洲城に柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉ら4宿老が集まり、織田家の後継者についての会議が開かれる。

これが清須会議である。

 

この会議で柴田勝家は信孝を推薦したが、秀吉はなんと長男 信忠の遺児の三法師(のちの秀信)を推す。

三法師、信長の嫡男である信忠の長男であり、信長の嫡孫である。すじは通っている。

 

しかしこの子供、わずか3歳である。

 

会議は紛糾し、勝家と秀吉は激しく対立したが、結局信長の仇を討った秀吉の殊勝がものをいい、秀吉の主張どおり三法師が後継者と決まった。

 

信長が討たれたとき、織田家の主だった武将たちはそれぞれ敵地で交戦中であり、秀吉も備中高松城を水攻め攻城中であったが、信長の横死を知り、驚異的なスピードで畿内に戻り、6月13日に天王山で明智光秀を破っているのだ。

 

だが、会議のあと勝家と信孝の怒りは収まらない。

秀吉と信雄(この時は秀吉と組んでいた)との対決姿勢を強めていく。

 

そして、翌11年(1583)3月。

ついに勝家・信孝陣営と秀吉・信雄は近江の賤ヶ岳で激突する。

 

戦いは秀吉・信雄陣営の勝利。

織田家家臣NO.1であった勝家は自刃し、信孝は切腹させられてしまう。

 

これにより、秀吉は織田家の実質NO.1の地位に就いたことになる。

 

今回はここまで、次回に続く。

 

次回

天下取りに向かって突き進む秀吉。ひそかに野望を秘める家康。

この両雄がついに・・・。

 

 

 

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おやこ探検隊が行く! その3‐1

  • 2013-10-15 (火)
  • 未分類
  • 作成者:斉藤 誠

れきし探検の巻 ~ながくて史跡めぐり編~

   中野氏とともに ①

 

おやこ探検隊とは、子どもとその親(ワタシ)が探検隊としていろいろなところへ出かけていった様子を楽しくお伝えしようというものである。 

 

今回のおやこ探検隊は、特別編として長久手市郷土史研究会会長の中野さんに小牧・長久手の戦いの解説と、関連する史跡の案内をしていただいたのだ。

 

歴史好きにとって長久手の地は、有名であるらしい。

「小牧・長久手の戦いがあったとこでしょ」となる。

中野さんいわく、「天下分け目の戦い!」なのだそうだ。

天下分け目というとすぐに関ヶ原をイメージするが、それよりも16年まえに秀吉と家康という両横綱ががっぷりと組んで、天下を争った。

それがここ、長久手なのである。

 

では、小牧・長久手の戦いとはいかなるものか。

まずはそこから始めていきたい。

以下、中野さんの解説をまとめたものである。

 

小牧・長久手の戦い。

天正12年(1584年)3月~天正14年(1586年)10月に、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦いである。

 

発端は本能寺の変だ。

天正10年(1582)6月2日未明 本能寺にて織田信長が家臣の明智光秀に討たれる。信長49歳である。

当時信長は、日本の半分以上の地を押さえており、天下統一目前であった。

 

信長の死によって、残された者たちの間で後継者争いがおこる。

織田信忠、織田信雄、織田信孝。

信長の息子たちのうち、成人に達していたのはこの3人。

 

ただし、長男の織田信忠は本能寺の変の際、光秀に攻められ二条城で自刃している。

 

つまり、残るは織田信雄、織田信孝のふたり。

 

 

ちょっと長くなりそうなので、今回はここまで。

続きはまた次回・・・

 

 

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おやこ探検隊が行く! その2

  • 2013-09-06 (金)
  • 未分類
  • 作成者:斉藤 誠

れきし探検の巻 ~犬山城編~

 

 

おやこ探検隊とは、子どもとその親(ワタシ)が探検隊として
いろいろなところへ出かけていった様子を楽しくお伝えしようというものである。

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天正10(1582)6月、天下統一の途上にあった織田信長が、家臣明智光秀の謀反により自害をとげた。

本能寺の変である。

 

その後、後継者を巡って家臣たちの間で争いとなり、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と、信長の次男信雄(のぶかつ)を支援する徳川家康が戦うこととなる・・・。

 

 尾張の北端、美濃との境を流れる川、木曽川。

 

この川のほとり、小高い山の上に城が建っている。

犬山城である。

 

今回は現存12天守の一つであり、国宝に指定されているこの犬山城に行ってきた。

 

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、

かつて城主を務めていた池田恒興(つねおき)が奇襲作戦により、占拠。

その後、秀吉も入城している。

 

明治4年(1871)天守以外のほとんどの建物が取り壊されてしまったが、周辺には城下町の古い町並みや、多くの観光施設がある。

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旧磯部邸

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そして、天守閣の中へ。

 

入ってすぐのところは、まだ石垣の中。

何もない。

石垣しかない。

ただ、ものすごく太い梁が通っている。

こぢんまりとした天守だが、骨は意外に太い。

 

階段は勾配がキツイ

 

内部は四階まであり、甲冑や合戦屏風などが展示されている。

開け放たれた窓から吹き渡ってくる風が心地よい。

 

北側には木曽川、その向こうは美濃(岐阜)。

 

 

 

四階は廻縁(まわりえん)がまわる望楼(ぼうろう)となっている。

見事な景色を見渡すことができるが、なぜか写真を撮るのを忘れてしまった。

 

そして、手すりが低い。

 

つまり高いところが怖い探検隊(小)は出てくることができない。

もったいない。

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天正12年(1584年)4月、徳川家康は小牧山に陣をしいている。

これに対し、羽柴軍も小牧山に近い楽田(がくでん)に陣をしいて対峙している。

 

戦線はまだ、膠着している。

 

 

おやこ探検隊、次回は長久手市郷土史研究会の中野さんと史跡をめぐった模様を
お届けしたい。 

 

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おやこ探検隊が行く! 

  • 2013-08-19 (月)
  • 未分類
  • 作成者:斉藤 誠
その1

れきし探検の巻 ~小牧山城編~

 

おやこ探検隊とは、子どもとその親(ワタシ)が探検隊として
いろいろなところへ出かけていった様子を楽しくお伝えしようというものである。

 

小牧の野にぽっかりと小山が浮かんでいる。

小牧山。
標高85.9メートルの小さな山である。
ここは、かつて織田信長が美濃攻略のための城を造ったところであるが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時には徳川家康の主陣地となっている。
家康はここを大規模に改修し、強固な陣をつくり羽柴軍と対峙した。

今回は、その小牧山城に出かけてきた。

 

現在、この山の頂上には1967年(昭和42)に建設された3層4階の模擬天守が建っており、内部は小牧市歴史資料館になっている。

 

パラついていた雨がようやく上がるか上がらないかという天候のなか探検隊二人は出掛けたのだが、小さいと思っていた小牧山、その敷地は意外と広い。

 

家康が陣を張っていた当時、ここに何千という兵がひしめいていたのだろうか。

 

登り口が分からず南側から上り始めたが、鬱蒼と茂る木々のトンネルを見上げると、階段が遥か彼方まで続いているかのように感じる。

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階段には、やぶ蚊達がウヨウヨと飛び回っている。

「止まったら刺されるぞ。」

きっと歩いていたって刺さ れる時は刺されるのだと思うが、そんなことを言いながら息を切らして登った。

 

木々にさえぎられて天守閣は全く見えない。

 

実はもっと広くて通りやすい道が北側にあるのだが、この時は気がついていない。

そうこうしているうちに、少し視界が開け建物が見えてきた。
歴史館である模擬天守である。
京都の西本願寺「飛雲閣」をモデルに設計してあるのだそうだ。
四階の展望室に上がると、周りに視界をさえぎるものがないためずいぶん遠くまで見渡すことができる。
徳川家康もこの山の頂上に立ち、犬山方面をにらんでいたのだろうか。
いつの間にか雲が切れ、晴れ間が広がってきている。
せっかくのいい景色なのに、探検隊(小)は怖いといって展望室の外に出ようとしない。
高いところが怖いのだ。腰抜けめ。
我々は長い長い歴史の積み重ねの上に立って生きている。
時にはそんなことに思いをはせてみるのもいいものだ。
セミが鳴き始めると、一気に暑さが増したようだ。
今年の夏は暑い。
次回は、小牧・長久手の戦いにおいて、羽柴軍に占拠された犬山城の訪問記を記してみたい。

 

 

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これ いかに  Vol.2 

  • 2013-07-22 (月)
  • 未分類
  • 作成者:斉藤 誠

 「へそ」

これは、普段の生活の中で遭遇したチョットした問題について、これはいかがなものだろうかとつぶやいた雑文である。

 

「へそ。腹の中心にある小さなくぼみ。ものの表面の中央部にある小さなくぼみやでっぱり。物の中央、中心。また、重要な部分。ポイント。」

 

最近思うことがある。この街の中心、つまりへそはどこなのだろうかということである。

市役所付近は行政の中心ではあるが、裏手には田んぼが広がっていて、ほのぼの感以外の「なにか」を期待してはいけないような気がする。

図書館通りは車の流れは多いが、通過していくばかりでとくに賑わいがあるようには見えない。

南の方の地区は、新しい店が続々とオープンしているが、店舗それぞれは賑わっていたとしても、コアとなる何かがあるわけではないようだ。

リニモ古戦場駅前に「リニモテラス」なるものを整備し、新たな街の顔とするという構想がずいぶん前からあったと思うのだが、なかなか形になってこない。

 

私の考える“へそ”とは、人が集まり、元気で賑やかな街の中心的な場所のことである。

 

しかし、そもそも長久手市に“へそ”は必要ない、安心して住める場所であればそれでよいという考えもあるかもしれない。

 

へそ、ヘソ、臍。

 

長久手市のへそ問題、はてこれいかに。

 

へそイラスト

 

*リニモテラス:長久手古戦場駅前にまちの新たな顔として構想されている、広場とそれを囲む複合商業施設

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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