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長久手市市民記者ホームページへようこそ!

 市民記者とは、行政からの一面的な視点では伝えきれない、
長久手市の魅力や課題などを市民のみなさんの視点で取り上げてもらい、
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 行政からのお知らせとは一味違った市民のみなさんからのバリエーション豊かな記事をどうぞお楽しみください。

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ながくて 旧街道をゆく! 「やざこ道編」

  • 2014-01-22 (水)
  • 未分類
  • 作成者:モリゾー1104
木下勘解由塚

木下勘解由塚

武蔵塚(森長可の墓)

武蔵塚(森長可の墓)

喜婦嶽地蔵(2体)

喜婦嶽地蔵(2体)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸時代に長久手から名古屋へ行く道の、もう一つのルートとして「やざこ道」という街道があった。この「やざこ道」は、「山口街道」の香流から猪子石、藤森を抜けて原山に至り、山桶で南進し、景行天皇社前を通り、せせらぎの道を通過し、喜婦嶽(きぶたけ)に至るルートである。

また、途中には木下勘解由(きのした かげゆ)塚や景行天皇社があり、さらに長久手城跡や武蔵塚(森長可の墓)もあり、戦国時代には人の往来が多く、合戦の際にも盛んに利用されていた道だったといえる。

 

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ながくて 戦災う(いくさわざわう) 「雲山和尚とは?」

  • 2014-01-22 (水)
  • 未分類
  • 作成者:モリゾー1104
史跡案内板

史跡案内板

首塚(石碑)

首塚(石碑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岩崎城主であった丹羽氏次が書いた「長久手軍記」に、天正13年(1585年)に岩作村の久嶽山安昌寺の住職であった雲山和尚は大変情け深い僧で、長久手の合戦のときに戦死者の首を集めて、「首塚」を建立したことが記されています。合戦の翌日には徳川軍や羽柴軍の戦死者の死体が長久手のあちこちに横たわっていました。農民たちは死者の持ち物から金品をはぎ取っていたのですが、雲山和尚はそれを止めさせて、戦場から敵味方の区別なく首を集め、埋葬供養したと言い伝えられている。」

「首塚」は、岩作東商店街のあった岩作元門の旧道沿いにあり、宝永3年(1707年)に名古屋藩士の福富親茂が石碑を立てたと伝えられている。

 

 

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ながくて 旧街道をゆく! 「山口街道(猿投道)編」

  • 2014-01-19 (日)
  • 未分類
  • 作成者:モリゾー1104
「八大竜王」の石碑

「八大竜王」の石碑

立石池と愛知医大病院

立石池と愛知医大病院

山口街道からつながる猿投道(立石池の南)

山口街道からつながる猿投道(立石池の南)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸時代に長久手から名古屋へ行くためには大きく2つのルートがあったようです。一つは「山口街道」で、もう一つは「やざこ道」です。今回はそのうちの「山口街道」を紹介します。

名古屋城下にある現在の名古屋市東区山口町(白壁町の東)を起点に、古出来町、茶屋ヶ坂、引山、四軒家と、ちょうど今の国道363号線にあたり、黒石からが県道田籾名古屋線となり、旧街道名でいうと「猿投道」となり、真行田あたりで東へ行くと「上八草道」となり、南へ行くと「三州伊保道(三河道あるいは足助道ともいう)」となります。

「猿投道」の途中の白針には、大正時代に当地を襲った大干ばつの際に村人が村内の3つの真言宗の寺の法印に頼んで雨乞いの祈祷をしたという言い伝えにちなんで、「八大竜王」の石碑を建立しています。その大がかりな祈祷は7日目に霊験があって激しい雷雨があり、村人はやっとのことで一息つくことができたそうです。その場所は、ちょうど立石池の南側の堤にあり、北側には、長久手で最高層のビルである愛知医科大学付属病院(新病棟が5月にオープン予定)がそびえています。

※引用文献 … ①香流川物語/小林 元著、②長久手の文化財/長久手町史編さん委員会

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ながくて 戦災う(わざわう)! 「忠義の武士」

  • 2014-01-16 (木)
  • 未分類
  • 作成者:モリゾー1104
史跡案内板

史跡案内板

木下勘解由塚

木下勘解由塚

 

長久手の合戦の折、豊臣方の総大将であった三好秀次(後の、関白となる羽柴秀次)は、白山(現在の尾張旭市稲葉)において徳川方の奇襲を受けて総崩れとなり、長湫方面に敗走し、大将の秀次自身は馬を失い、現在の市北西部の「荒田」の地まで逃げ延びてきた。ここで秀次が立ち往生していたところ、木下勘解由(きのした かげゆ)という家臣に会い、彼が自分の馬を秀次に譲り、自らは徳川方の追手を防ぐため、この地で献身的に戦い、戦死している。

この写真にもある塚は「忠義の武士」として木下勘解由が祀られており、昭和55年には地元からの要望も強くあり、石碑も完成している。現在、この塚はスギヤマ薬品と高層マンションに囲まれてひっそりと佇んでいる。

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ながくて ハッケン伝 その13 「左義長とは?」

  • 2014-01-15 (水)
  • 未分類
  • 作成者:モリゾー1104
左義長の直前(6時頃)

左義長の直前(6時頃)

点火(6時半頃)

点火(6時半頃)

燃え上がる炎(炎の形で吉凶を占う)

燃え上がる炎(炎の形で吉凶を占う)

後半(7時頃)

後半(7時頃)

 

「左義長(さぎちょう)」の起源は諸説あるが、平安時代の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」という杖で毬を打ち合う遊びがあり、小正月(1月15日)に宮中の清涼殿の庭で青竹を束ねて毬杖を3本結び、その上に扇子や短冊を添えて焼き、その年の吉凶を占ったとされる。これが、民間に伝わり、現在の形になったとされるが、「左義長」の名前の由来そのものは不明であり、地方によっては「おんべ焼き」、「どんど焼き」と呼ばれるところもある。長久手市内では、市街化とともにこの伝統行事は縮小傾向にあり、今年は、①岩作壁ノ本の高根橋下、②岩作長鶴のグリーンロード北、③菅池の水田の3ケ所で実施された。(昨年は、4ヶ所で実施されており、1ヶ所減ったことになる。)

今回、1月12日(日)の早朝に岩作長鶴の左義長を取材した。夜明け前にもかかわらず子供から大人まで60名くらいの参加者があり、伝統のある厳かかつ格式のある行事であることを改めて実感した。門松や正月飾り(しめ縄)、書き初めを書いた習字紙などを持ち寄って焼くのですが、竹の「パーン」弾ける音や舞い上がった灰のかなりの量が降りかかる光景が印象的でした。

当日、その残り火で焼いた餅を食べたり、焼いた灰を持ち帰って自宅の周囲に撒くとその年が無病息災に過ごすことができるという言い伝えがある。また、書き初めを焼いたときに炎が高く上がると字が上達するという言い伝えもある。

この周辺地域でこの行事はほとんどなくなっており、長久手市に残されているのが実情であり、非常に残念です。最後に、関係者の皆様、温かい豚汁や焼いた餅をごちそうになりました。ありがとうございました。

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ながくて 旧街道をゆく 「南北街道?編」

  • 2014-01-14 (火)
  • 未分類
  • 作成者:モリゾー1104

今回は、長久手の南北を貫く街道(旧街道の名称が不明なので、以下「南北街道」と記載する)を紹介したい。まず、北方面の瀬戸につながる街道が現在の「県道瀬戸大府東海線」であり、南方面の北新田につながる街道が「県道岩作諸輪線」である。この2つの県道は、市街化調整区域内にあることもあり、ルートは昔のままであり、あまり変わってはいない。南北街道(瀬戸方面をのぞむ)

熊野社

熊野社

大草城址

大草城址

この南北街道の大草地区の溝之杁には「大草城址」があり、「熊野社」と「永見寺」が建立され、その城域の土塁や堀も比較的残っている。さらに、その南に位置する郷前には登城するための大手道(曲り道)も残っており、かつての城下町の雰囲気を醸し出しており、興味深い場所といえる。

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ながくて 旧街道をゆく 「三州伊保道編」

  • 2014-01-14 (火)
  • 未分類
  • 作成者:モリゾー1104

今回は、三州(三河)へ行くための3本目のルートであった「三州伊保道(県道田籾名古屋線)」をご紹介しよう。前回までに紹介した三州へいくための2つのルート(上八草道と下八草道)が現在でいう市道であるのに対し、この道は県道規模であり、昔も今も非常に交通量の多いメインのルートであったといえます。

三州伊保道(県道田籾名古屋線)

三州伊保道(県道田籾名古屋線)

 

 

市内のルートを大まかにいうと、北西部の草掛から平和橋北、市役所を東進し、熊張真行田交差点を右折し、前熊、前熊東、愛・地球博記念公園西口、三ヶ峯ニュータウンを東方面に抜けていくルートである。この沿線で前熊地区は古い集落であり、弘法堂や祠などが旧道沿いに残されており、興味をひかれるところである。

 

前熊弘法堂

 

 

 

 

 

 

前熊弘法堂

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ながくて ハッケン伝 その12 「岩作東商店街とは?」

  • 2014-01-14 (火)
  • 未分類
  • 作成者:モリゾー1104

現在、長久手の商店街というと戸田谷にあるアピタと隣接するアオキスーパー周辺ですが、その昔は「岩作東商店街(現在の長久手小学校から安昌寺かけての街道沿い)」がその中心地であり、その近隣の村からも人が往来するほど繁栄をしたそうである。

明治の終わりから大正の初めにかけて、長久手一帯で亜炭の採掘が盛んになり、人の出入りが多くなって、名古屋や瀬戸に物資が運ばれた。また、周りの地域に商店街が存在しなかったため、北は瀬戸市の山口、幡野、菱野方面から、西は名東区の猪子石、藤森、一社方面から、南は日進の北新田、岩崎方面からと遠方からも人が集まり、商店街は年々発展していったそうである。

商店の内訳としては、酒造店、肥料店、金物店、自転車店、理髪店、下駄屋(くつ屋)、菓子屋、うどん屋、寿司屋、仏壇屋、建具屋、旅館、風呂屋、仕出し屋、玉突き屋(ビリヤード屋)、カフェーに至るまで、多くの商店が軒を並べて商店街を形作っていたのである。

現在では、シャッター通りというよりもむしろその跡さえなくなりつつあり、一部はマンションやアパート、あるいは一般住宅に形を変えてしまっており、仕方のないことであるが、寂しくもあり時の流れを感じずにはいられない。

とはいうものの、当時の地図(昭和20年頃のもの)にその店名が記載されており、現在も商売を続けている商店もほんの少数だがあったので、調べて分かったものを以下に紹介したい。

 

<現在も営業している店>

①一六屋:明治20年代頃に名古屋から来た店で、当時は米・麦・塩・油、その他の生活用品等の雑貨を取り扱う商店だったが、その後、呉服洋品店に転換し、現在に至っている。

②京広商店:当時は肥料を扱っていたが、その後は生活用品等の雑貨も取り扱うようになった。

③酒越管工店:当時は酒造店であったが、その後は管工業に転業している。

④いと幸呉服店:当時は呉服店であったが、その後は洋品店とクリーニング取扱店を営んでいる。

※上記のうち、正確でない部分がありましたら、ご連絡ください。訂正させていただきます。

一六屋前(奥の白い商店)

一六屋前(奥の白い商店)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

酒越管工店(左の建物)

酒越管工店前(左の建物)

 

 

 

 

 

 

 

引用資料:「平成元年度 長久手のむかし/長久手町郷土史研究会編」

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ながくて 旧街道をゆく 「下八草道編」

  • 2014-01-08 (水)
  • 未分類
  • 作成者:モリゾー1104

その昔、三州(三河)の八草村に行くためには、もうひとつの方法として「下八草道」がありました。これは「上八草道」から分岐するもので、熊張早稲田あたりで南進するルートで、途中には北熊集落の氏神である神明社があります。

また、現在の愛・地球博記念公園内の「こいの池」と「かえで池」の間を通り、公園の西入口から「サツキとメイの家」へ向かう道がそれにあたります。現在は、県道力石名古屋線(猿投グリーンロード)で遮られ、一部のルートは公園内になっているため、一般の通行はできなくなってしまいました。

下八草道(北熊から神明社の森をのぞむ)

下八草道(北熊から神明社の森をのぞむ)

神明社

神明社

 

下八草道(石場周辺)

下八草道(石場周辺)

 

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ながくて 旧街道をゆく 「上八草道(三州八草道)編」

  • 2014-01-08 (水)
  • 未分類
  • 作成者:モリゾー1104

年初にあたり、新シリーズとして「ながくて 旧街道をゆく」の投稿を開始します。その第1回目は、「上八草道」を取り上げます。江戸時代の長久手は岩作(やざこ)を中心に東西と南北にのびる主要な街道がありました。特に、東部は三河との国境があるため、戦略的にも重要な街道であったといえます。この尾張と三河をつなぐ街道は3つあり、「三州伊保街道」「上八草道」「下八草道」と呼ばれていました。

今回はそのうちの一番北側にある「上八草道」について紹介します。現在の市役所から安昌寺前をとおり、真行田、郷前、三光院前、宗延寺北、愛・地球博記念公園前を北進し、愛知環状鉄道・八草駅前へとつながる旧街道である。猿投グリーンロードの工事により、長久手と豊田の市境にあった旧道の一部がなくなってしまったが、その大半が残っている。

宗延寺(北熊)

宗延寺(北熊)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上八草道(宗延寺北)

上八草道(宗延寺北)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上八草道(熊張橋)

上八草道(熊張橋)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その沿線にはあの円空が彫ったといわれる仏像を所蔵する永見寺や、室町時代に創建され、長久手では最古の歴史を誇る三光院(大草観音)があり、この三光院には300年以上も前に奉納された「馬の塔図絵馬」があり、現在も馬の塔(オマント)はこの地域の祭礼(行事)として残されています。

三光院(大草観音)

三光院(大草観音)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

常夜燈(長久手市最古のもの)

常夜燈(長久手市最古のもの)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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